近所に、ずーーーっと気になっている定食屋があります。
街のはずれにあるその古定食屋は、どこからどう見ても繁盛してなさそうな佇まいなのに、なぜか気になってしまう、だけど入るにはちょっとの勇気がいる、そんな店なのです。
以前、意を決して、その定食屋に入ったことがあります。
入った途端、店員のお母さんに
「ごめんね~、今日、定休日なの~」
と言われて、ハイすいません、と出たけど、よく見たら暖簾も出てるし看板も光ってる、えっなんで??……まあ、そんな店なのです。
だからまだ、私はその定食屋で、食事をしたことがありません。
そして今日。
在宅で仕事に詰まり、そこそこのストレスを抱えて終業。
腹は減ったが家に食べるものが何もなく、外は雨。
なるほど。ギャンブルをするにはちょうどいい日じゃないか。
例の定食屋に、チャレンジするとしよう。
店に入ると、初老のご夫婦が暇そうにテレビを見ている。
テーブルは2つ。カウンターに椅子が4脚。客は誰もいない。
座敷もあるけど照明がなくて薄暗く、なぜか雑に布団が敷いてある。
敗 色 濃 厚。
しかしもう引き返せません。
そのまま入店し、テーブルへ座ります。
お父さん「オススメは、まぐろ定食ですよ」
なるほど。ここはオススメを頂くことにしましょう。
ワタナベ「じゃあ、まぐろ定食をひとつ」
お父さん「え?」
ワタナベ「まぐろ定食をひとつ」
お父さん「え??」
ワタナベ「まぐろ定食を、ひとつ」
お父さん「え????」
たったいま私に勧めたよね??????
そんなに難しいオーダーしてないと思うんだけど???
お母さん「まぐろ定食ですって」
お父さん「ああ、ああ」
私、まったく同じこと、言ったよね?????
ちなみにお母さん、そう言いながらも、入店したときに居た位置から一歩も動かずに、テレビで演歌を見てる。
生きてるよね?私にしか見えてない存在、じゃないよね?
ちなみにいまだ、お冷もおしぼりも出てこない。
エアコンの温風が、すごい勢いで私の顔を炙ってくる。
あと傘立てに死ぬほど傘が刺さってるけど、客、私だけ。
こいつは面白くなってきやがったぜ……。
調理場に立ったお父さん、しばらくして、お母さんを呼んだ!
それに応えるお母さん!
やおら立ち上がり、調理場へと向かう!
よかった!ちゃんと生きてた!
でも!すべての動きが!緩慢!
お母さん「おまたせしました~」
まぐろ定食が来ました。
ちなみに、テーブルに置かれた瞬間、エアコンの強風におひたしの鰹節をすべて吹き払われてます。
さっそく一口。(ぱくり)
普通!
だが悪くない。悪くないぞ!こういうのを求めていたんだ!
……と食べ進めていたところ、お父さんとお母さん、私が入店したときにいた位置にぴったり戻り、私にかまわずテレビの演歌番組を見ています。
お母さん「千昌夫の顔がちょっと違うねぇ」
お父さん「これ昔の映像なんじゃないかい」
お母さん「あー、昔のなのね」
あれ?
むしろお二人に、私の姿、見えてるよね?
ここに客がいるって、わかってるよね?
仕方なく、私もテレビの演歌を見ながら、食事をするじゃないですか。
その間も、お二人は私に構わず話し続けてるじゃないですか。
お父さん「吉幾三の歌はほんとうに難しいんだよね」
お母さん「このひとは本当に上手だねぇ」
お父さん「そうだねぇ」
ここ、私の実家?
というわけで、腹を満たし、お店を出たのです。
しかしこのお店の評価は一旦保留としておきたい。
別日に別メニューで再チャレンジしたい。そう思わせる不思議な魅力が、あの店にはあるのです。
ごちそうさま、お父さんお母さん。次は唐揚げ定食を注文するよ……。
ちなみに、最後までお冷は出ませんでした。